SSブログ

『クラシック批評こてんぱん』 [雑誌・書籍・コミック]

という本を読んでいる( 鈴木淳史 洋泉社 2006年)。
まずレコードとCDを組み合わせたような表紙の写真に気を取られ(笑)、帯の惹句( つまりキャッチコピーですね)「批評を笑って 書き手を嗤わず!」につられて思わず手にしていた。

  

まえがきを読んでみると、

音楽を言葉で語るなど不可能であり、そうでなくても不純なことだと漠然と思っていた時期があった。クラシック音楽を聴き始めた頃だろう。
音楽は言葉で表せないものを語るメディアであり、他の方法で語れるものなら、それは本当の音楽じゃないやんけ、と考えていたのだった。

そうそう、こういう考え方があるのだ。
たしかに「音楽が言葉で表されるなら音楽など要らない」という極端な考え方はそれなりの説得力を持っていて、もしこうした考え方を受け入れる余地があるとするなら、ぼくらがやってる音楽ブログなどは一文の価値もないものになってしまう(笑)。

ぼく自身には「音楽を言葉で語るなど不可能であ」るという考え方はまったくなくて、クラシック音楽を聴きはじめたころ、こういう音楽をどう批評しているのか気になり『レコード芸術』その他の雑誌をしばらく買っていたことがある。
宇野功芳の好き嫌いをずばり表現する評論にも驚いたし( でも、そうなんですね。音楽なんて要するに好きか嫌いかなんです)、出谷啓、諸井誠などの評論家の文章はとてもおもしろくてレコードを買う際の参考にしたものだが、ジャズの評論に比べると音楽の本質に迫っているような気がして、ぼくも文章修業だと思って自分の聴いたクラシックのレコードの評を書いたりしたものだ。

ちなみにジャズのライナーノウツによくあるのは「○○は1938年デトロイト生まれ。△△のバンドで実力を認められた。この曲はAABA16小節からなるブルースで、tptsp の順にソロを取る」なんてやつで、こういうのを読むために高い国内盤を買ってる人もいるのだ。

ところで著者の鈴木はこの問題にどう決着をつけたのか。

そもそもわたしは評論に対して大きな勘違いをしていたのかもしれなかった。
何よりそのことに気づかせてくれたのは、わたしの中で、時おり顔を覗かせつつも、長年くすぶり続けた亡祖父の言葉であったのだ。

小学校の夏休みに祖父と二人で心霊現象を扱ったドラマ仕立ての番組を見ていた著者は、とても怖くなって祖父に聞いてみた。
「こういう番組って怖くない?」
そのときの祖父の答えは
これはテレビゆえ、全く恐怖を覚えず
というものだった。

そうか、現実とテレビ番組として放送されるものはぜんぜん違うのか。

ここで鈴木少年は「表現されるものとその表現には大きな隔たりがあること」を悟るのだ。
あたまいい!!

じつはぼくにも似た体験があるのに、そういう「ソシュールだの構造主義だのような抽象的な思考」にはまったく至らなかった。
悔しいというか、あたま悪りぃというか……。

内容はじつに刺激的だ。
第1章 クラシック批評、読めば読むほど……
第2章 音楽批評をとことん面白がる
第3章 音楽批評から時代の気配を読む
第4章 サルだと書けない音楽批評
第5章 クラシック批評との付き合い方。

ちなみに第1章にはたとえばこんなことが書いてある。

「お浄め」を戴いていると、身体はポカポカと温かく、何ともいえない不思議な体験でした。(「手かざしで腰痛が消えた」~『陽光ライフ』第106号 嵩教真光本部)

ワルターとかケンペとか、ルービンシュタインのコンサートのあとでこのような効果があることを話す人は多い。この文章を書いた人も、きっとしかるべき演奏家の名演を聴いたに違いない。うらやましいことである。

これだけなら「わっはっは」と笑って済ませられるが、じっさい似たようなことを書きなぐっている高名な音楽評論かもいるわけだから、桑原桑原…。

さて、ぼくがブログに書いてることを「音楽批評だ」というつもりもサラサラないけれど、せいぜい「お前が言ってるようなことはサルでも言えるよ」と後ろ指さされないように気をつけよう(笑)。

ちなみにカヴァー折り返しの著者紹介によると「嫌いなチュッパチャプスはコーラ味」だそうである。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。